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萩のお見送り
2012.09.10

   

朝夕、ようやく秋の気配を感じられるようになったものの、いまだ厳しい残暑が続いています。

今年の夏はほんとうに暑かった。

だからでしょうか、今年の夏はお亡くなりになる人が多いように思います。

先日も、生前ほんとうの孫のように可愛がってくださった おばあちゃん が他界されました。

お知らせを受け、すぐにお悔やみに駆けつけました。

 

なんと安らかなお顔でしょう。

わたしは思わず手で美しい白髪にふれ、気がつけば頬と頬をよせ、頬ずりをしていました。

 

早くに母を亡くされ、幼い多くの妹たちを、母親替わりに育てられた おばあちゃん。

苦労は多かったものの、稀にみる孝行息子に大切にされた晩年は、倖せであったことでしょう。

 

      ばあちゃんは倖せじゃった、ありがとうよ

 

そういって微笑んでいるかのような、そんな穏やかなお顔でした。

 

翌朝ー

ひとあし早い萩の花が、やさしい風に吹かれ、ふわりと…

まるで、おばあちゃんを見送るかのように揺れていました。

                 

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夏の想い出
2012.08.28

 

ふるさとの想い出はいつも、山と川、そして必ず四季折々の花と共に甦ります。

夏の花といえば、ひまわりが代表選手のようなものですが、わたしの夏の想い出に登場するのは

「タチアオイ(立葵)」。

今も八月のはじめ、祖父母のお墓参りをする際、その傍らに咲いてやさしく迎えてくれます。

ひまわり同様、夏の陽射しをうけながら空に向かって咲いている花ではありますが、本来は、

入梅の頃、すっくと伸ばした茎に薄紅や白の花をつけます。

雨の多い季節、太陽を慕うように咲き続ける姿が古来賞美された所以でありましょう。

歴史的仮名遣での葵は「あふひ」と書くので、「逢ふ日」と掛詞になり、和歌にも好まれました。

枕草子では、

  

葵、いとをかし。神代よりして、さるかざしとなりけん、いみじうめでたし。もののさまもいとをかし。

とあり、源氏物語「藤袴」にも、

  

心もて 光にむかふ あふひだに 朝おく霜を おのれやは消つ

とあります。

蛍兵部卿宮に求愛された玉鬘が、

「自分の心から光の方を向く葵でさえ、朝に置く霜を自身で消すことなどできましょうか」と、

思うに任せぬ我が身を訴えた、哀れ深い歌です。成長して美人ゆえの苦悩を経験する玉鬘なれど、

もともとは陽性の人柄、葵の花のイメージがよく似合います。

 

ちなみに、八万年前の地層から発掘されたネアンデルタール人の骨を調べたところ、

遺体の胸にタチアオイとアザミの花束が飾られていたことが判明したとか…。

永きにわたり、人類に愛され続けてきた花なのです、ね。

 

 

ジージーゼミの鳴く声を聴きながら、たくさんのタチアオイが咲く中、子猫のように小さな背中を丸め

鬼に見つからぬよう、息をひそめて隠れていた夏。

やがて、カナカナカナ…という儚げな蜩の音に、ちょっぴり淋しくなった夏休み最後の日ー

 

         

京都デニム|特集:コラム 立葵(タチアオイ) ーアオイ科 花言葉:大志・野心

 

                  遠い、遠い…夏の日の想い出です。

 

 

 

 


絶望のとなりには、希望
2012.08.19

 

 


長い人生の中、人はみな幾多の困難に出会います。

苦しみ・悲しみに打ちひしがれ、絶望の中を漂い彷徨うこともあるでしょう。

そうした時…哀しいかな人は、自信も勇気もすっかり無くして、落ち込みます。

しかし、そこから先の気持ちがどの方向に傾くかで、運命は大きく変わる…と感じています。

      

    ただただ、絶望という巨大な壁だけを見つめる人

    ふっと見ると、その隣に 希望 という名の光が微かにでも感じることができる人

 

そもそも、「絶望」という字のもとの意味は、織物を織ろうとしていた糸をたつ、

あるいは糸が切れてしまうこと。

ですから一般的には、自分の未来へとつながる糸が切れる…つまり望みが絶たれてしまう

ことを「絶望」と呼んでいます。

ところがー

「絶」という字にはもう一つ、色糸の意味があって、絶妙・絶景のように「このうえもなく」という

意味があるのです。

つまり、絶望の淵に立つことは、明日への望みが絶たれるようにみえて、実は…

心がこの上もなく成長する転機になりうる可能性を秘めた場所に立っているー

そう考えたら、有難くてありがたくて、泣いてなんかいられなくなります、ね。

インドの詩人で、東洋人として初のノーベル賞を受けた ダゴール という人の言葉に、

        人間の自由は、苦痛を救われることにあるのではなく、

        その苦痛を 愉悦 の一要素に変える

という至言があります。

そんなの無理、できっこないわ…と言われてしまうかもしれませんが、

ただ一つ、「我」を捨てることさえできたなら、苦痛を愉悦に変えることができるかもしれません。

例えば、お母さん。

十ヶ月もの長い間、お腹に赤ちゃんを抱え、産みの苦しみをあじわい、夜中に何度も起きて

おっぱいを飲ませ、泣くのをあやしおんぶしながら家事をして……

そんなお母さんの顔は、険しく苦しい顔をしているでしょうか?

いいえ。苦の中に悦びを感じているからこそ、子どもを育てることができるのでしょう。

少なくともその中に、「我」はないと思うのです。

 

 

悲観的・楽観的ー という言葉で分けてしまうのは好きではありませんが、

「ものは考えよう」という気持ちは、とっても大切なことだと痛感しています。

今は真っ暗闇でも、また目の前にやわらかで優しい光が現れる…

そう信じて生きてゆきたいものです、ね。

 

 

 

 

 

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