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故郷を偲びて
2015年1月25日

會津若松は、わたしの誇るべき故郷です。
辛抱強く人情味溢れる人々が暮らす街です。
しかし驚くことに、
ネット上では會津を批判しおとしめるような、
記事やコメントが多く見られます。
あろうことか、それを信じて卑下する會津人さえいます。

 

どういう思考回路で、あのような浅はかで
無礼極まりない言葉を綴るのでしょう。
キチンとした日本の歴史も知らずして、
會津の人々の心の奥底のこる傷を知らずして、
何を言っているのか!と、呆れかえるばかりです。

 

特に戊辰戦争で行われた事実を、
慰安婦問題とごちゃ混ぜにして、
韓国人同様のウソのかたまりとまで罵るとは…。
相手が誰だかわかれば、わたしは名誉棄損で訴え、
真実を突きつけ、詫びて戴きたい気持ちです。

 

城下の戦いで略奪を欲しいままにし、
婦女暴行をしたあげくに惨殺した事実。
戦闘で死んだ者の埋葬を禁じ、
腐敗するまま、カラスについばまれるままにした事実。
これは嘘偽りない、武士にあるまじき行為でした。
その原因は、もともと士分ではない者が、
新政府軍に参戦したことにより、
横暴に歯止めがきかなかったことにあります。
しかも首脳陣がそれを許容したが故、
非道がまかり通ったのです。
(とはいえ、すべての人が非道だったわけではありません。
のちに會津人を妻にした大山巌などは、
慈悲深い温情を持って、會津に接したと言われています)

 

會津藩はその後、
不毛地・斗南の地へ流されます。
米も草さえも育たない、シベリヤのような極寒の地…
病死者・餓死者が続出しました。
それを支持したのは、長州の木戸孝允でした。

そもそも恭順を示した會津に、
無理難題を押しつけたのも長州です。
孝明天皇に発砲して、朝敵と名指しされたのも長州。
岩倉具視と謀って、孝明天皇を毒殺したのも長州。
倒幕の密勅を偽造したのも長州。
京都で攘夷派の志士を殺された恨みがあったとしても、
元を正せば自分の撒いた種ではありませんか。

 

火中の栗を拾うような、誰もが嫌がり引き受けなかった
京都守護職を強いられたにも拘らず、
黙って勅命と幕命に従った會津。
だからこそ、孝明天皇から絶大なる信頼を受けたのです。
その會津を恨むなど、まさにお門違い。

 

會津は賊軍にあらず。
會津藩主・松平容保が死ぬまで肌身離さず、
身につけていた孝明天皇の御宸翰、
これこそが動かぬ証拠です。

 

水戸黄門の印籠のようにそれを振りかざせば、
戦況は変わっていたかもしれません。
しかし、容保はそれをしませんでした。
そして死ぬまで言い訳をせず、
最期まで孝明天皇への忠義を全うしたのです。

 

牙を抜かれ冠を奪われた會津は、
武力以外のところで奮励努力をし、
教育者として多くの人々が功績を残しました。

長州は国を作ったとするならば、
會津は、人をつくったと言えましょう。

 

會津が受けたあまりにも非条理な扱い、
それを含めキチンとした歴史を知った上で、
長州は少しでも會津へ詫びる気持ちを抱き、
會津は、過去を水に流す努力をし、

すべての人は、国のためを思って生きた。
どちらの存在なくしても、今の世はない。

お互いが相手を思いやる気持ちをもつことが、
大切ではないかと感じています。

汚れなき ましろき雪に古の 愚直に生きた 人を偲ばむ

 

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