わたしは、登山と呼べるような山登りをした経験がありません。
幾度か挑戦してみようと思ってはみるものの、やはり自信がない。
頂上からのご来光…
険しい斜面を、苦しみぬいて登りきり、その光を目にした時の感動は、
言うまでもなく登った人でなければ、決して味わえるものではないでしょう。
感激屋のわたしなど、きっと気絶するほど感動してしまうに違いない。
気絶したら、みんなに迷惑がかかってしまう。
やっぱり、やめておいた方がよさそう…という結論に辿りつく(笑)。
感動といえば想い出すのが、江戸時代の学者・本居宣長。
彼の考えはとても興味深いものばかりですが、
中でも「もののあわれ」についての考えが面白い。
そもそも和歌とは、感動を表現したもので、
「もののあわれ」に発する感動の心を、宣長は「やまとごころ」と断定。
日本人の心の中心は、モノに感動するところにあると考えたのです。
中国人の心「からごころ」は、天とか道とかという理屈を重んじる。
一方、日本人の心「やまとごころ」は、感動する心情を重んじる、と。
人間の価値観は、、まず感動するところにある。
感動できるから良いのだ、という判断を、日本人の特質としたのが宣長でした。
考えてみればこの心情は、古の人々が、ごく普通にもっていた真心。
儒学の建前に押しつぶされそうになっていた日本人の心情を、
宣長が、18世紀日本人の忘れ物として提言した言葉。
今ふたたび甦らせる時なのかもしれません、ね。
感動の種は、いたるところにあります。
季節ごとの花々、月の美しさ、ちいさな命の誕生…
感動からあふれる涙は、種を潤し育んでいくもの。
みなさん、おおいに感動致しましょうヽ(*´∀`)ノ